ベーからの手紙      

No 127.DEC.11.2006.


 
 元気ですか?
 いつのまにか、街の中はクリスマス気分に衣替え。
 朝から雪が風で流されてきて、外の空気が白く
 見えました。
 寒くなるとヨハンの散歩の足取りがかるくなります。
 冬、ですね。


たくさんの素敵な本を遺してママのお姉さんが天国へ旅立ってから、
1年がたちました。
先日ママは、お姉さんが小学6年生の時の担任だったスミ子先生と、
仙台駅前で会っていろいろとお話をしました。
お姉さんは自分が翻訳をした本が新しく出版されると、手紙と一緒に
いつも先生に贈っていました。
アメリカやヨーロッパの児童文学の素晴らしい世界への道を最初に開いて
くれたのが小学校のこの先生だったからです。
 
 「1979年の手紙から・・・・子どもの頃から本を読んだり絵を見たりして、
  ぜひ1度会ってみたいと思っていた方々と仕事でお会いできるのは
  本当にうれしい。
  私が子どもの本にひかれるようになったきっかけは、と思い起こせば、
  小学校6年の時、教室に置いてあった岩波の『メアリー・ポピンズ』や
  『クマのプーさん』にあるようです。
  当時夢中で読んで、その世界に遊んだ楽しさ、素晴らしさ、感激を
  今でも忘れることがありません。
  今、私が児童文学と関わりのある仕事をしているのも、学級文庫に
  素晴らしい本をそろえておいて下さった先生のお陰です。
  あの時こうした本に出会っていなかったら、今ごろきっと違う仕事に
  ついていたことでしょう。
  出会いということは、神秘的で尊いものです。」
 
 「1984年・・・・(今回お送りする)『おじいちゃんだいすき』は2週間前に
  できたばかりです。来年は5冊決まっています。
  うち2冊は、岩波と講談社文庫です。
  先生が多賀城小学校の教室に置いて下さった本を夢中で読みましたが、
  その岩波で今度仕事ができるというのは夢のようです。
  来年は、私が出版社に翻訳の持ち込みを始めてちょうど10年になります。
  最初の頃はどこからも相手にしてもらえませんでした。
  あれから10年、感無量です。
  来年はグリム生誕200年祭、ドイツにぜひ行きたいです。」

 「1985年・・・・『おじちゃんだいすき』が読書感想文コンクールの課題図書に
  選定されました。正直言って、知らせを受けた時は本当にうれしかったです。
  うれしくてどうしたらいいかわからなかったので、電話をもらった直後、
  朝10時にお風呂に入りました!
  明日からドイツに行きます。何人かの作家を訪ね、書籍市や図書館を
  回ってきます。」

出版社の編集のお仕事をしている方からは、手紙が届きました。
 「・・・彼女の行動力、頭脳明晰さ、とりわけ私が感嘆いたしましたのは、
  彼女の日本語の美しさでした。
  ドイツ語がこんなにしなやかな美しい日本語に変身するのかと
  驚嘆したものでございます。」

そしてこんなエピソードを教えてくれたのは、お姉さんが自分の跡を継いでくれる
人として育てたい、と病気と闘いながら翻訳の指導をしていた荒川みひさん。
(「べーからの手紙 No.125」でご紹介した方です。)
 
 「若林先生がおっしゃっていた素敵な話があります。
  もう翻訳のベテランとして活躍していた頃、ある若い編集者が担当になり、
  その人は先生に会うとこう言ったそうです。
 『編集者になるずっと前から、若林ひとみという翻訳家に注目していました。
  次はどんなテーマの本が出るんだろう、と楽しみにし、本が出ると、
  テーマに対する訳者の思いを感じながら読んでいました。』
 原書選びからこだわりをもって仕事をしていた先生にとって、この言葉は
 本当にうれしかったようです。
 この翻訳者が訳した本なら・・と思われるなんて素敵なことです。
 『どんな本でもいいから仕事が欲しい』とつい考えてしまいがちですが、
 そんな時、私はこのエピソードを思い出します。」

いろんな方から、どれだけお姉さんが心をこめて外国の言葉を日本語に
訳していたか、どれだけ原作者の思いを大切に翻訳しようとしていたかを
聞くたびに、ママは、お姉さんの本を大切に守っていかなくちゃいけない、と
思うそうです。

今ママは、ドイツの作家、ヘルマン・フィンケさんにメールを書いています。
お姉さんが翻訳をしたフィンケさんの本、
   「 白バラが紅く散るとき ヒトラーに抗したゾフィー21歳 」(講談社文庫)を
        大切にしていくためです。(「べーからの手紙 No.125)
この本が別の出版社から日本で最初に出版された20数年前、
東京で放送局の特派員という仕事をしていたフィンケさんの事務所を、
1人の日本人の作家が訪ねてきたそうです。
 「ゾフィーの生き方に感動しました。私もゾフィーについてドキュメンタリーを
  書こうと思います。取材をしたいので、ドイツに住むゾフィーのお姉さんを
  紹介してもらえませんか?」
フィンケさんからドイツへの連絡で、「反戦作家」と呼ばれているらしいその男の人は
ドイツを訪れてゾフィーの姉妹に会いました。
そしてその後、「私の作品の出版は予定よりも遅れる。」という連絡だけが
あったそうです。
ある日、ママのお姉さんが自分の目を疑ったのは、ある雑誌の連載記事を
読んだ時でした。
 「白バラ・・・ゾフィー・ショル・・・」
そのドキュメンタリー記事を書いているのは、フィンケさんを訪ねてきた作家。
文章は、フィンケさんの作品をお姉さんが訳したものがそのまま使われているのです。
 「私は、ドイツでゾフィーの姉妹に会ってインタビューをした・・・。」
もちろん、すぐに連載を中止するよう何度も抗議をしました。
でもお姉さんの抗議は無視され、ゾフィー・ショルの記事の連載は、
それから数ヶ月間続いたそうです。
 「私はヒトミさんと一緒に、その作家S氏と出版社の社長と会談した時の様子を
  手帳にくわしく記してある。  2人は私達に謝った。
  S氏はさらに、私に謝罪の手紙もよこした。その手紙は今もとってあるよ。
  私は、『作家としてのプライドにかけて、今度こそ自分でゾフィーについて
  本を書きます。』という彼の言葉を信じたのだが、その約束はいまだに
  果たされていないようだね。」

今年2月の「 ゾフィー21歳 」の新しい出版のことを、フィンケさんは何も
ご存じありませんでした。
フィンケさんに確認をしないまま、ドイツのエージェント(出版の代理店)が
この20数年前の事件の時の日本の出版社と契約をしてしまったそうです。
 「事前に知らされたら、私はこの出版社には絶対に許可をしなかったのに!」

   (「白バラが紅く散るとき・・」のフィンケさんの言葉から抜粋) 
 「行動することこそ、不安を克服することである。
  ゾフィーは別に聖人ではなく、まったく普通の人間でした。」

 「窓辺で、白いバラが1輪輝いています。」
11月25日、お姉さんの思い出を語り合うために集まってくれた人達に、
白いバラを1輪ずつ持ち帰ってもらいました。
この白いバラは、お姉さんの心、なのかもしれません。

僕達がどんな生き方をするかは、最初にどんな人に抱き上げられるか、
どんな家族と一緒に暮らすことになるかで決まります。
僕達犬は、自分で生き方を決めることはできません。
人がどんな生き方をしたかは、あとからわかることなのでしょうか。

          2006年11月25日 ”若林ひとみを偲ぶ会” での遺族挨拶
                      
                        今日はここまで、また来年ね。
                        楽しいクリスマスと、よい年を!

                               Beethoven
”サンタさんからおへんじついた!?” の
さし絵を元にしたレリーフ作品
こちらが、その絵本 若林ひとみ著・ポプラ社刊
(右端にドールハウスが写ってしまいました)

小高くなっているお気に入りの場所

散歩の帰り道、草地を抜けて大橋を渡ります
No.126 No.128